6/30(火)
末広真樹子提訴さる!(6/17を参照) 相変わらず面白すぎる。TVニュースでは、当選直後と自民党入党直後のインタビューが続けて流されていた。素晴らしい。プライドを捨てて自ら晒し者になりながら楽しませてくれている。さすがは元タレントだ。体を張っている。議員になってもサービス精神を忘れていない。
そうそう、かなり昔に末広まき子が出ていた番組のことを思い出した。たぶん東海地方ローカルだったと思うのだが、演芸番組の最後に末広まき子が合掌して「おタヌキ様、おタヌキ様」と唱えると、信楽焼きのタヌキを模した人形が出てきて、一緒に馬鹿な会話をしていた。合方がタヌキというのも凄い話だが、今は自民党のタヌキと手を組んでいることを考えると、それで合っていたのかもしれない。きっと先天的にタヌキと仲良くするのが得意なのだろう。
しかし、この成り行きは注目に値する。これでもし、訴えが通って損害賠償というかたちで終わってくれれば、今後の良い前例となる。個人的な意見としては、ぜひともそうなって欲しいと思っている。
政見放送を観た。高信太郎が出てきた。こんなことを言っていた。
「Hello Everyone!」
「僕は票のごみ箱です!」
政治は楽しい。
6/29(月)
ついに本格的なJava開発ツールを入れた。いままでは開発ツールの期間限定試用版とか、JDKを素直に使っていたのだが、これで少しは便利になる。Script言語を除くと、Windows用の本格的な言語をイストールするのは久しぶりだ。本格的な環境という意味では、VHDLシミュレータを入れて遊んでいたことはあるのだが、今度は(一応)実用性が期待できる。
初めてさわる開発ツールは出来にかかわらず、不条理なアドベンチャーゲーム、マニュアル不備のビジネスツール、慣れないOSと並び、戸惑うソフト四天王なので暫くは四苦八苦しそうだが、それが一番楽しいという話もある。
6/26で話題にした件について、1998年6月27日(土)分に返事が掲載されていた。全て了解。
6/26(金)
後輩がホームページに書いている日記の1998年6月26日(金)に、6-22/23の内容に対する意見があったので、答えることにする。
確かに私の書き方は話の背景と状況をきちんと伝えるには、あまりにも説明が足りなさすぎ、しかも複数の違う問題を混ぜてしまっている。キチンと書き分けられていないためにミスリードを起こさせてしまったようだ。読み違えて欲しくないこと、別の問題として話題にしたいことが、ゴッチャにされてしまっている。これは書き方が悪かっせいだ。たいへん申し訳ない。突っ込まれても仕方がない。この経緯を書くと半端じゃないほど長くなるため、かなり端折ったのだが、説明が不十分であることをわかっていてアップしてしまったのは私の暴走である。
はっきりと数字が出せるまで調べが付いていないために書くのを控えたこと、時系列で状況を追った経緯がまだまとまっていないことなど、まだアップする段階ではなかった。これは明らかにマズい。
ただ、言い過ぎに思える個所だけは指摘しておきたい。もっとも、これは各個人が捉える「常識」の差異でしかないため、ここから先は議論にならないだろう。私はこう考えているということで。
- 『公団の「口約束」を「契約」と勘違いした人たちのわがままでしかないでしょ。』
これ、もし契約だったら明らかな犯罪。たとえ口約束であっても、それを破るのは犯罪に近い行為。不誠実である。それは非難されるべき行いだと私は考える。
- 『「ここの区画は客が少ないですよ」と言ってお店を誘致する人はいないので、それを嘘吐きというのはなんか変に聞こえる。』
これは逆におかしいと感じる。私の常識では、これは故意に不利な条件を隠したという不誠実きわまりない態度であり、詐欺である。
未だに怒りが消えないため、自分の文を客観的に読み返すことはできていないが、問題を整理せず、感情的に全部ぶちまけてしまった点に関しては承知している。調べるためにはまだ時間がかかるが、事態が切迫した形でいきなり表面化したため、キレてしまったのだ。
それからSFの件について。私は最近のロシアSFは、形式的にも「コア」に関しても他の国のSFとは違うものだと思っているし、昔のソ連SFとも違うと思っている。昔の作品や他の作品と比較して同じ物には見えていないのだ。
これが、つまんなかったとか、自分には合わなかった、理解できなかったという感想ならば話はわかる。もし見た目やあらすじだけで「時間が止まった」とか「同じようなものの繰り返し」と判断しているのなら、それは私が6/22-23の文章で犯したミスと同じものである可能性が高い。
だが、そうではなく、読んだ上でやはりそう感じたのなら、その場合には主観の問題も含め、その点は真剣に考えてみたいので、協力をよろしく。
あ、何となく、他のホームページと相互干渉を起こしつつある。良い感じ。
6/24(水)
今日はあまりにも個人的すぎる内容になるが、お許しいただきたい。
SFに興味を持ちはじめたのは十代の前半のことなので、古いといえば古い。もう二十年になる。二十年前と言えば、スターウォーズが全盛だったのだが、娯楽系の作品よりもバラードやレムが好きだった。だが、決して熱心なファンというわけではなかった。大学のSF研究会に入り、内部・外部を含めてファンジンなどの活動には手を出してみたもののあまり興味が持てず、いわゆる研究や評論、翻訳といった活動を本格的に始めたのは、ここ十年のことだ。
ただ、熱心ではなかったとはいえ、他の雑誌が間欠的な購読になってしまっているのに対し、「SFマガジン」だけは中学生の頃から欠かさず買い続けている(ちなみに初めて買った号にはグインサーガの第一話が掲載されていた)。SFにはそれだけの魅力を感じるのだ。
ここ二十年、いくつもの雑誌が生まれて廃刊され、購読する雑誌も変わってきた。二十年のスパンで見ると、購読している雑誌で変わっていないのは「SFマガジン」くらいかもしれない。他にも「サイエンス」があるのだが、これは変わっているとも言える。
他にも長く購読している雑誌は少なからずあるが、「SFマガジン」はぶっちぎりの位置を占める。
そして購読二十年目にして、個人的にはとんでもない事態となった(何のことだかわからない場合は書店で見て欲しい)。この先がどうなるのかはわからないし、どうしたいのかもわからない。だが、ペースを崩さず、決して速くはないが遅くもないような調子で続けられたら良いと思っている。とはいっても、これだけは個人の意思で決められることではないし、先のことなど誰もわかるはずもないのだが。
6/22-23(月・火)
怒りを沈めながら書いたため、二日もかかってしまった。この文章は練馬区光が丘住民、近隣の住民以外には状況がわからないかもしれない。そして、まだまだ冷静になりきれていないため、考えも文章も整理できていないが、しばらくは冷静にはなれそうにないため、不完全な状態のまま、アップすることにする。不備や矛盾点、説明が不足している部分は指摘していただきたい。「全くわからない」の一言でも構わない。
現在住んでいる練馬区光が丘は住宅・都市整備公団の計画によるものだ。最初こそはあまりにも人工的な風景に見えて気持ちの悪さを感じたが、やがてそうでも無いことに気が付き、知り合いもできてすいぶんと住みやすくなった。
だが、これは住宅・都市整備公団のおかげだとは思っていない。この団体が、これまでどれだけアホなことをしてきたのか、どれだけ嘘をついてきたのか、聞き及んでいるだけでもかなりの数になる。今さら住宅・都市整備公団という組織には何も期待していない。まぁどこかに消えてくれれば最高だという程度か。民間も安くなったことだし。
光が丘の構造は少し極端で、大きな道をはさんで南北に分かれている。北側は住宅が少しあり、行政施設、郵便局、消防署、警察署、病院、大型の公園、大型販売店、そして飲食街という作りになっている。そして南側は、現在は小規模な食料品店とコンビニエンスストアがあるだけで、あとはひたすら住宅という作りになっている。したがって南側の住人は、何か用事があると数少ない横断路まで迂回しなければならない。
当初は一応、南側も同じように商店街を作る計画はあったらしい。公団の誘致によって大型DIY店、いくつかの小規模食料品店と飲食店が入った。だが、五年前に引っ越してきた時には、飲食店に割り当てられた場所の半分以上はシャッターが降ろされ、さみしい状況だった。そこで細々と営業していた飲食店は、あまりにも人が少ないために維持することが出来なくなり、次々と閉店していった。そこをキチンとした飲食街にするという住宅・都市整備公団の嘘にだまされたかたちになったわけだ。脱サラをして飲食店を始めた人がいたというのに、さぞかし無念なことだったろう。そして、最初は作らないと言っていたはずのパチンコ店が出来るという話になったとき、騒ぎは大きくなった。飲食店街に関する嘘、パチンコ店に関する嘘がテレビニュースで取り上げられたこともある。
そして現在では、元飲食店になるはずだった場所は書店に変わり、DIY店も店じまいし、食料品店街だけが残っている。
そんな中、再び問題が起こりつつある。DIY店の撤退によって空いた場所に大型電器店が入るはずだったのだが、月曜日、南商店街に大量の張り紙がされたことで話が急展開していることが明るみに出た。張り紙の伝えるところによると、近隣商店街の承認が得られず、電器店の出店が難しくなったというのだ。そして、このままでは南側はゴーストタウンになると訴えていた。南側の商店街の人たちの危機意識は十分に伝わってくる内容である。
ここで一つ謎が生まれる。なぜ大型電器店が反対に遭うのか? そこから50m先には大型販売店が三つもまとまって存在しているうえ、最近まで大型DIY店が営業していたのだ。今回の手続きを見ると、これまで出店に際しては近隣商店街の承認を得ていたということになる。すると大型販売店三店舗と大型DIY店、書店などの関しては、問題が無かったということになるのだ。それらの店舗と、今回の大型電器店との間に決定的な違いがあるとは思えない。はたして何が状況を変えたのだろうか? だが、これはどんな想像をしても裏を取る手段が無いため、これ以上考えても無意味だ。
それよりも、問題だと思うのは、住宅・都市整備公団である。ここまでゴーストタウン化が進んだのはなぜか、公団は原因を考えたことがあるのだろうか? 南側の商店は、公団の嘘にだまされて最悪の状況下で営業を続け、そのうえ景気の後退により、さらに追い討ちをかけられている。この狂った状況は、すべてが最初につまづいた時点から始まっているとしか思えない。最初の計画通り、南側にも人の流れができ、にぎわうようになっていれば、ひょっとしたら北側と同じように維持できたかもしれないと考える。なぜなら北側が五年前とほとんど変わることが無く、維持され続けているからだ。なぜ、結果的に嘘をついた形になるにもかかわらず前言を撤回し、計画を変更したのだろうか。撤退する商店に対し、自分たちの嘘への補償をしているのだろうか。そして次々にゴーストタウン化してゆく風景を見ながら生活してゆかなければならない住民の感情を考えたことはあるのだろうか。
この光が丘には、これまでの過程で、他にもたくさんの嘘がある。今回の話とは関係が無いので書かないが、追々文章化してみたい。
ところで、ここまで酷い実態を体験したことで、「住宅・都市整備公団」という漢字の列を見ただけで笑ってしまうようになってしまった。すでに存在そのものがギャグとしか思えないのだ。なんにしたところで、やっていることが面白すぎる。
そして、これがエスカレートすると、「お前なんか住宅・都市整備公団野郎だぁ!」というのが最大の罵倒語と化す日も近くなっているかもしれない。
さらに、用法が極まり、自分の中で「住宅・都市整備公団」が差別用語となる日がやってくるかもしれないと思うこの頃である。
6/21(日)
TVで「暴走機関車」を観る。実は好きな作品なのだ。黒澤明の原作をアメリカ資本でヨーロッパ映画に仕上げたという感じが良い。黒澤明がソ連に招かれて作った「デルス・ウザーラ」と並び、黒澤明の隠れ名作と位置づけている。
この作品が好きなのは、確かに個人的に好きな女優であるレベッカ・デモーネイが出ているからということもある。だが、「破滅へと向かう美学」ともいうべき映像、最初から悪あがきでしかないとわかっていて繰り広げられる緊張感溢れるアクションなど、救いようが無いほどの諦観で語られるピカレスクストーリーは、純粋に魅力的だ。この映画から感じられるどん底の凄み、醜さの説得力、破壊へと暴走する鉄の固まりの迫力など、それらは決して美しくはないのだが、観ていて強力に引き付けられる磁力を持っている。
また、主役の悪党と刑務所の所長が、立場の違いこそあれ本質は同じ存在だったという使い古された結末も、ストレートに見せ付けられることで陳腐だと感じることはなく、新鮮な気持ちで観ることが出来る。
未見の方には、是非とも観ていただきたい。
ちなみに、最も気に入っている劇中の台詞はつぎのものだ。
「このケダモノ!」
「いや、もっと悪い。人間だ!」
6/20(土)
「宇宙家族ロビンソン」の放送が始まった。LDを買ってまで観る気はしないが、放送となると話は別だ。第1話から観られないのは残念だが、観られるだけマシだろう。さすがに古臭くなってしまっているのは致命的だが、懐かしさのほうが強く、結局観てしまった。やはり二人の娘は可愛いし、ドクター・スミスとフライデーが良い味出している。探険車のプラモデル(フライデー付き)を作ったものだ。
今年リメイク公開された映画版の「ロスト・イン・スペース」は大コケしたようだが、観てみたいという気はある。
6/18(木)
会議に呼ばれることが多い。当然のごとく開始時間が指定されるのだが、最低でも五分前には到着するようにしている。これは性格的な問題で、時間指定された約束を破ることができないのだ。
ところが、外部から大勢の人を呼ぶ場合、何らかの事情で遅れる人は多い。もちろん、送れる人全員が時間にルーズだというわけではない。不可抗力によって遅れる人もいると思う。だが、全員が不可抗力で遅れることなど考えられないし、十分程度の遅れで済むとも思えない。したがって、十分〜十五分程度遅れてくる人のほとんどは、不可抗力が原因ではないと考える。
で、集まりが悪い場合、招集した側から「集まりが悪いので十分待ちます」といったことを告げられる。これ、日常的によくあることだと思うし、そう言いたくなる気持ちもわかる。遅れてくる人々のことを考慮し、親切でそうしているのに違いない。だが、時間厳守で来ている人々は、時間を守らない人の犠牲となり、無駄な時間を過ごさなければならないのだ。こんな不条理なことは無い。
個人的には、そう告げられた瞬間、時間に遅れられない自分の性格を呪うのと同時に、くだらない決定をする招集側への幻滅を感じる。
遅れる人の心理状態を想像してみると、たぶん、「遅れてまずいけど、何とかなるだろ」とか「もう始まっているだろうけど、途中からでもいいか」という程度のものだろう。そして集まらないからといって開始時間を遅らせてしまう招集者は「みんなが集まってから」と思っているのだろう。
だが、遅れてくる人に合わせて開始時間を遅らせてしまうことで、遅れてくる人は「少し遅れたけど、まだ始まっていなかった」と安心してしまう。それが悪循環になると、結果は回を重ねるごとに悲惨なものになる。そして時間通りに来た者は、ますますいたずらに待たされてしまうという「正直者はバカをみる」の世界になるのだ。
遅れる側が悪いことはわかっているわけだし、遅れた当人もその覚悟はしているだろう。招集する側は、そこで甘やかすのではなく、毅然と開始予定時間に始めるだけの覚悟が欲しい。正直者にバカをみさせる招集者が尊敬されるはずもないからだ。
ひょっとして遅れる側の人のなかには、「自分は偉い(自分が主役だ)から、自分が行くまでは始まらない」とでも考えている人がいるのだろうか? 「偉い人が来るまで待つ」とはよく言われることだが、それは話がおかしい。そもそも
時間を守らない人が偉いわけはないからだ。時間を守れない人が、能力を認められ、尊敬され、その結果として偉くなれるわけがない。もし肩書きだけが偉そうになっていて、時間を守れない人がいたら、それは単なる看板倒れであり、勝手な思い込みだけで「自分は偉い」と思っているに過ぎない。
ヒッチコックが「サイコ」を公開した時、途中にトリッキーなどんでん返しが入るため、上映途中での入場を禁止したという。それ以来、映画の観客は、開始時間に合わせてくるようになったのだそうだ。
普段の悪習を改めるためには、これくらい徹底した方針が必要なのかもしれない。
6/17(水)
最近、最もスリリングな出来事、というかマイブームになりつつあるのが、参議院議員「末広まき子」だ。愛知万博を批判して無所属で当選しながら自民党に鞍替えし、いつのまにやら万博賛成派になっているという恐ろしい議員である。
私は愛知県出身者なのだが、愛知県には何の未練も感情もない。そして「末広まき子」に対しては、むかしテレビで観たタレントというイメージしかない。だが、公約違反や、その後の情けない(卑劣な)行動は新聞やWeb、週刊誌などで知っている。大きく報道されたので、知っている人も多いことだろう。
あの一件はどうなったのかと久しぶりに知りたくなり、gooで検索してみたら面白いページがたくさん出てきた。どれも情報は少し古いのだが、面白くて読むのを止められなくなってしまった。
この面白さを多くの人に是非とも知って欲しいため、以下にリンク先を示す。
汚職を除けば、国民に政治不信を起こさせる代議士の行動を全部やってしまっている、情けなく、かつ大笑いできる世界を楽しんでもらいたいと思う。わはは。
6/16(火)
所用で筑波の高エネルギー加速器研究機構(KEK)に行った。常磐線荒川沖駅からタクシーに乗り、NASDAの筑波宇宙センターを通り越してさらにその倍の距離(^^;)。SF者としてはどちらの施設もグググッと来るものがあるが、どちらかというと宇宙開発よりトリスタンのほうにトキメいてしまう。大学時代に勉強した記憶は全く無いが(^^;)、一応は原子物理や核物理の講義が記憶に残っているからだろう。
ところで、いつも思うのだが、タクシーに乗ってつくば学園都市を走ると、どうしてもロシアの郊外を思い出してしまう。どちらも道が広くてまっすぐ、両脇と中央には街路樹、そして施設は木に囲まれている。本当にそっくりなのだ。計画的かつ合理的に作られた街並みというのは、どうしても同じような発想・結果になるのかもしれない。
いま住んでいる「光が丘」も同じく計画的かつ合理的に作られた団地なのだが、ここの風景もロシアの団地を思い出させる。こちらも驚くほどそっくりだ。たぶん、これも上と同じ理由だろう。
日本の道路や街には「乱雑」というイメージがあるのだが、旧ソ連を思い出させる整然とした風景も、探せばたくさんあるのだろう。
実際、シムシティをやってみた時、こういう風景を作りたくなる気持ちはわかった。道は広くてまっすぐ、緑地が欲しい、住宅はまとめて商業地帯の近くにして…。いつも感じている不満、そして思い描く理想の環境などをまとめていくと、結局誰でも同じものを作ってしまうのかもしれない。そう考えてみたら、合理的すぎて「味気ない」というイメージだった「光が丘」の整然とした風景も、少しは安心できるものになった。
6/15(月)
おおおおっ! かなりサボってしまったぁ! とは言っても毎日更新とは書いてないからオッケーオッケー、ヨッ!(ということで)
ドクサレソフトとの格闘は何とか終わり、奥さんも無事に帰国してすべて正常に戻った。やはり、普段のペースがいい。
というわけで、そろそろ通常に戻します。
6/10(水)
何を隠そう,未だに例のWYEFソフトとの格闘が続いている.記録によれば格闘を始めたのが5/18だから,約3週間が経過している.毎日じゃないとはいえ,凄い時間のかけかただ.その甲斐あって状況はかなり良くなってきた.あともう少し.
しかし,このソフトが無い限り,何か作業が止まるというわけでもなく,他のソフトで十分足りている.また,すっかりコリたのでバージョンアップをする気もない.となると,ここまで時間をかけて動かす利点は何もなく,今後はHDDのゴミになる可能性も高い.こういう場合,勉強代だと思って捨ててしまうのが最も楽なのかもしれない.
とはいえ,日常全てを合理的に割り切れるわけもなく,何となく悔しいという感情もある.また,いじくり回すのが楽しいというのも認めなければならないだろう.とても納得できない不条理なシナリオ構成のアドベンチャーゲームを,攻略本無しで解いているようなものだ.ただし,これは普通のクソゲーと違い,一つ間違うと実害がでるという極悪のクソゲーである.まぁ,普段からクソゲーを面白がっているわけだから,きっとこれで良いのだろう.
クソゲーでっせー,しかも最悪でっせー,だから最高でっせー,っときたもんだ.
というわけで,続きをやります.
6/8(月)
意外に思われるかもしれないが、私が習慣的に閲覧しているWebページは、趣味の話題を除くと、保守系、または右系、さらにはタカ系が多い。いきなり誤解されそうだが、以下にその理由を説明する。
何度も書いているが、私は信じやすく、また暗示にかかりやすい奴である。そして、私にとって革新系・左系・ハト系の文章は非常に心地よく、気持ち良い。そのため、周りは自然と革新系の出版物ばかりになってしまう。すると、「革新系の文章しか読まない・読みたくない」という位置に自らを固定してしまいかねない。特に私はそうなってしまう危険性が高い。自分のポジションを必死に守る革新系。。。ナンノコッチャ。だが、冗談ではなく、実際に一時期、それに近い状態だったこともある。私のようなヤツにとっては、信条が宗教に近いものになってしまうこともあるのだ。
どう考えてもこの状況はマズイ。とはいえ、革新系の出版物は購入して読む気になるが、保守系の出版物に対しては金を払う気にも出版元を儲けさせる気にもならない。しかし、これがWebなら通信費のみで読め、しかもプロバイダに払うのであって、版元に払うのではない。以前から、保守系の人が出てくるTV番組を見るようにはしていたが、今ではWebも加わったというわけだ。今のところ、出版物と比べると質・量ともに不十分なのだろうが、私にとっては十分な量だ。
実際、保守系の文章から得られる物は多い。またまた「転向」したかと思われてしまいそうだが、これは「知識」が得られるというわけではなく、考える題材と時間が得られているということだ。
自分と正反対の位置から書かれた文章は、有用な知識こそ全く得られないが、考える機会だけは、たっぷりと与えてくれる。もし、ある文章に違和感や怒りを感じたとき、そこで自分なりの答を出さなければ、気持ち悪いままで終わってしまうからだ。自分の中で問題を整理し、論点を理解し、納得できる反論、または結論を考え出さなければならなくなる。反論が載っていそうな本を探して読むというのも解決策の一つだが、それではあまりにも馬鹿だ。やはり考えなければならない。
教師は知識を教えるが考える力を育てない――とはよく言われることだ。一般に使われている意味とは違うが、もし信頼でき、安心して聞いていられる教師に教わったとしたら、そうなりかねないだろう。なにしろ、疑問を抱くことなど無く、スラスラと頭に入ってくるのだから。だが、反面教師は知識を教えないが考える力を育てる。
というわけで、Webページの巡回は、自分が信条のドツボにハマっていないかどうかチェックする役割を果たしている。「何でもすぐに信じてしまいかねない性格の人間」にとり、これは必要な行動だと思っている。
6/7(日)
内田有紀主演「キャッツ・アイ」のビデオを借りた。感想は…うーん、林海象だなぁー、と。あはは。しかし、いきなりアニメで始まり、杏里の曲がかかるオープニングは面白かった。
ところで今日、またまた80年代ポップスCDを聞いた。それにもケニー・ロギンスのフットルースが入っているところに80年代音楽シーンを感じた(意味の無い文章だ)。とはいえ、やはりこの曲のノリは良い。映画のフットルースは内容的には??だったが、オープニングは最高だった。例の曲とともにステップを踏む足が次々と映し出され、観ていて楽しくなったものだ。
どちらも本編はともかく、オープニングが面白い作品だった。思い返してみると、こういう映画は結構な数ある。そこで、印象に残った映画のオープニングを挙げてみる。他にも奇麗なオープニングやオープニングの名作と言われるものもあるが、インパクトの強さのみで選んでみる。また、本格的な劇場通いをはじめたのが中学生の頃からなので、それ以降の映画のみにする。
- スーパーマン
文字が飛ぶのはスターウォーズもそうだが、立体文字がシュパーッと飛んでくるのにはドギモを抜かれた。椅子から転げ落ちたというのも、あながち比喩ではない。
- トータルリコール
真っ赤な画面に文字が浮かび、背景に尾を引く。音楽とあいまってヤラレタと思った。シビレた。
- フットルース
次々と足が映るだけなのだが、それぞれ違うステップを踏む。音楽とぴったり合っていて、観ているだけで楽しくなった。後から「サタデーナイト・フィバー」を観て、パクリだとわかったが、まぁ、先に観たほうがインパクトは強いということで。
- ビートルジュース
明らかに模型とわかる風景を舐めるように写してゆく。「なんだかショボいなぁー」と思っていると、いきなり人の顔が出てきて驚く。やっぱり模型だったのだ。意外や意外。感想は「ワァァオ!」の一言。
- バットマン
延々と通路のような場所を写している。なんだコレと思っていると、最後はカメラが引いて石か何かに彫刻したバットマンのエンブレムであることがわかる。そっけない表現だが、かなり驚いた。同じような手口として、ターミネーターがあるが、バットマンの方が数倍凄い。以上、二作品はティム・バートンの意地悪さが良い方向に作用している。
- パルプフィクション
パンプキンとハニーバニーという男女がレストラン強盗をするべく、会話を続ける。二人が覚悟を決め、キスした後に銃をかざし、「動くな!」。そこで有名な例のテーマが始まり、タイトルが出る。シビれる。内容の薄い映画だが、このオープニングだけで傑作を保証された作品。
- 惑星ソラリス
シンプル・イズ・ベスト。バッハの曲をバックに黒地・白抜きの文字がスクロールするだけ。だが、このオープニングが、私にとってベスト・オブ・ベストである。徹底的に金をかけた豪華な作品だが、内容的には、このシンプルなオープニングが相応しすぎている。
観ていない人は、是非とも観て欲しい。上の作品は、オープンングだけでなく、(一応は)内容も楽しめる。と書くと、「ソラリス」は「一応」なのかと突っ込まれそうだが、タルコフスキーの他作品と比べると「一応」の部類だと思っている。
6/6(土)
セガの新しいCM「人生は退屈だ――ショーペンハウエル」。
久しぶりにショーペンハウエルの名前を見た。こういう言葉をポツと引用してしまう衒学趣味は、理解できないこともない。だが、衒学をやってしまった時点で「普通の言葉で非凡なことを話す」というショーペンハウエルのやり方とは正反対のものになっている。本人は専門用語を極力使わず、普通の言葉でわかりやすく書き下すことに力を注いだはずだ。とはいえ、ショーペンハウエルの思想を解説した本の著者が、往々にして用語を思いっきり駆使し、難しい文章を書いているという現実を考えると、まぁ許される範疇かもしれない(誉めてるわけじゃないよ)。
手元に資料が無く、記憶だけで書くため怪しいものだが(話半分のさらに半分で読んでね)、この厭世哲学者は、世界を認識する「意識」はあくまでも表面にすぎず、その向こうに「生きようとする意志」があるとし、意志こそが本質だと書いた。そして「意志」とは欲望であり、この飽くなき渇望感が満たされることはないとして、「人生は悲劇」と書いた(断っておくが確信はない)。ショーペンハウエルの「退屈」は「意志」を滅却しなければ解消されないので大変な話になるのだが、この場合の「退屈」はソフトを買ってゲーム機に突っ込むだけで解消されるので、かなり簡単にできてしまう。何とありがたや、家庭用ゲーム機!
たぶん、CMで引用した人は、ショーペンハウエルを読んでいて(そうでなければ引用しないよな)、上のような意味もふまえてギャップを面白がっているのだと思う(私の考え過ぎである可能性は大)。だが、このギャグがもし予定されたものなのだとしたら、試みは全くハズしていると言わざるをえないだろう。ショーペンハウエルはマズイ。
セガのCMを見てそう感じる今日この頃なのだが、こういう事を書いていると重箱の隅をつつくイヤなヤツになってしまうので、今後は自省しよう。
実を言うと、セガのゲームは大好きだ。体質的にスクウェアやカプコン、コナミのゲームがどうしても馴染めず、セガのゲームなら合うのだ(ナムコも可)。そういう意味ではセガファンである。しかし、セガのゲームは好きなのだが、セガという会社に良いイメージは無い。このことを詳しく書くと長くなるので止めておくが、二律背反を抱えたファンなのである。
これはCMについても言える。例の「せがた三四郎」や「退屈」は、非常に良い出来だと思う。インパクトがあって面白い。セガという会社の名前も憶える。先日の「日本vsユーゴスラビア」でも、フィールドの広告に「フランスで勝とう! せがた三四郎」としっかり映っていたので、大笑いしてしまった。うまいっ!
だが、これは会社の宣伝にしかなっていない。現状を考えたら、会社の宣伝よりも商品の宣伝に金をかけるべきではないかと思ってしまうのは私だけではあるまい。大笑いして楽しみながらも「何をやっているんだか」と思っている。ここにも二律背反がある。
セガといえば、ドリームキャストは凄いスペックだと思う。組み込みマシンの極みを実現したという感じで好感がもてる。ただ、128ビットというあまり意味の無い数字を出すのは止めてほしいが。
しかし、ゲームマシンとして考えると、魅力をあまり感じないのは事実だ。どこかで見たデザインのカタマリとでも言えば良いのだろうか。あまり目新しさを感じない。バーチャファイター3の完全移植版が出るのなら買ってしまうだろうが、そうでも無い限り、手を出すことはあるまい(このへん、はっきり表明できないのはファンの弱いところ)。
というわけで、やっぱり二律背反なのである(^^;;
6/5(金)
何ということだ。ニュートリノに質量があることが確定(?)とは。学生の時、核物理の時間には、ニュートリノは(モデルとして)質量0、光速で動くということで話がされていたものだ。驚き驚き。
宇宙はニュートリノで満ちている。すると、怪しい宗教が主張している「愛」とはニュートリノのことだったのか。。。(すべった)
私は「普通は〜だ/ではない」、「常識的に〜だ/ではない」という表現をよく使う。この場合、「普通」とか「常識」は私が認識している「普通」であり「常識」である。つまり私の個人的な価値観ということなので、賛同する人もいれば、反対する人もいる。当然のことだ。そういうつもりで使っている。これを常識(1)としよう。
しかし、日常的な生活の中で「普通」とか「常識」と言った場合、「世間の人々の九割くらいは賛同する知識や規範」という意味である。これを常識(2)とする。
ここで、常識(1)と(2)が同じ場合ならば問題は起こらないが、たまにずれることがある。また、常識(2)が、理屈として明らかにおかしいこともある。この場合、どこがおかしいかを指摘すると「屁理屈」とか「建前」であるとされる。
これはどこかで読んだ例だが、幼児に塾通いをさせている主婦たちに、ある先生が早期からの詰め込み教育の害を語った時のことだ。話の最中はウンウンと神妙な顔で聞いていたが、最後に一言こう言ったという。「ご説明はわかりましたけど、本音と建前は違いますからね」。つまり、この人たちは「早くから塾通いさせて良い大学に入れよう!」が誰でも心の中で信じていること=常識(2)であると思っていたわけだ。恐るべし、常識(2)。
このように常識(2)とぶつかって「屁理屈」と言われてしまうと、それ以後は厄介なことになる。ここではそんな常識(2)との戦い(大げさ)を書かせてもらうことにする。
知っている人にとっては今更の話かもしれないが、「日本一醜い親への手紙」と「もう家には帰らない」の二冊(双方ともメディアワークス刊)は、タイトルからわかるとおり、子供が自分の親に対する批判(呪詛でも可)を書きつづった本だ。私にとっては、自分の感情が(いびつかもしれないが)決して不自然なものではないことを確認できたという点で、非常にありがたい本である(少数派の意見だとは思いたいが)。また、執筆者の世代は十代から六十、七十代まで多岐に渡り、決して一過性の現象ではないこともわかる。
人間、誰にも適/不適がある。こんなことはわかっている。だが、こと「親」に関する事となると、公の話題として適/不適という話があまり出てこない。肉体が健康であれば、だれでも「生物学上の親」になることができる。しかし、「生物学上の親になれる」という話と、「社会的・制度的意味での親の役割を果たす適性があるか」という話は、言うまでもなく全く別の問題だ。当然、後者の条件のほうが厳しいだろう。
だが、残念なことに両者の意味が混ぜ合わさり、時にはすり替えられ、「生物学上の親」であれば、自動的に「社会的な意味での親の適性がある」ものとして暗黙的に了解されてしまっている(そういう傾向がある)。
たとえば「親には感謝を」という言葉を考えてみる。常識(1)で判断すると「親には感謝を」とは、「社会的な意味での親の役割を全うした人に感謝する」ことだと思っている。だが、すり替えが行われて「生物学上の親であれば無条件に感謝される」という意味になり、ついには「産んでやったから感謝しろ」という暴言を許すまでになっていないだろうか。ちなみに紹介した二冊の本には、こんなすり替えられた発言がたくさん紹介されている。
というわけで「親は〜〜」と一般に言われている言葉は、前に「役割を全うした」という言葉が付くべきなのに、抜け落ちたまま常識(2)と化してしまったものと考えている。
理屈でわかるということと、日常的な感覚として受け入れられるかどうかは違う。上に紹介したような、意味をすり替えられた「親」に関する常識(2)は、かなり深く根付いている。「親孝行/不孝」という一方通行の言葉しか無いことも、その証左だろう。この常識(2)を前にすると、先ほど書いたように、私がどれだけ説明しても「屁理屈」としか受け取ってもらえない場合が多い。事実、私が故意に家族・親族との付き合いを絶っていることは必ず批判されてしまうし、こういった私の態度を理解できない人は多いようだ。
この本が、「こういうヤツもいる」ということを少しは理解して貰うための足がかりになってくれるのではないかと期待したい。
この本はありがたいことに、Web上で全文を読むことができる。ぜひとも「日本一醜い親への手紙」の全文と「もう家には帰らない」の全文を多くの人に読んでもらいたいと思う。もちろん、本のほうが読みやすいことは言うまでもない。
6/4(木)
奥さんはアメリカ、旦那は留守番。というわけで、しばらく独身生活となった。久しぶりのやりたい放題である。とはいっても、生活習慣が変わってしまっているため、特に何か思い浮かぶというわけでもない。
今まで観られなかったCSのアダルトチャンネルを観ようか…請求書でバレる…飲み歩こうか…馴染みの店も無くなった…オタクなビデオを観ようか…観たい作品がない…ゲームで徹夜…今でも時々やっている…という具合である。こう考えてみると、生活がつまらなくなっているような気もしてきてしまうが、では元は面白かったのかと考えてみると、決してそういうわけでもない。単に行く場所や手にする物が変わったというだけの話で、個々の事象が特に面白くなったり退屈になっているわけでもない。だいたい、退屈になるのなら結婚などしないし。
結局、何をしようかと考えているうちに留守番が終わってしまう可能性が最も高い。うーん、これってやっぱり、つまんなくなっているということなのかな?(^^;;
6/3(水)
ある所で、503円の買い物をしたとする。細かい持ち合わせが無かったので、1000円札と1円玉を3枚出したとする。そして499円のお釣りが帰ってきた場合、どう対応すれば良いのだろうか(金額はデタラメ)。500円玉1枚を期待して細かく払ったのに、余計に細かくなって戻ってきたのだ。以下、私と店員の会話。
「1円玉を3枚出したんだけど」
「2枚しか受け取ってないよ」
「普通、こんな変な払い方をする人はいないでしょう」
「知らなぁい。2枚しか無かったよ」
すでに1円玉はレジの中に入れられているので、確認のしようがない。店は空いていたので他の人の迷惑にはならないが、あまりにも馬鹿馬鹿しいから出てきた。
普通、変な額を受け取ったら確認しそうなものなので、きっと受け取り金額を入力する段階では1003円と打とうとしていたに違いない。そして499円という変な結果が出た時点で間違いに気が付いているはずだ。
だが、1002円と打ったこと、計算結果として499円が出たことはレジに記録されてしまう。そのため強弁を押し通すことによって、その記録を正当化したかったのだろう。そこは大きな組織のフランチャイズ店なので金銭の出納は全部管理されているはずだ。きっと記録には特にうるさいのだろう。そのために紹介したような行動にでたのだと推察できる。
この場合、レジの記録と中の現金は合わなくなるが、後で1円だけ抜いておけばいい。自分の懐は痛まない。早い話が横領なのだが、1円玉で文句を言う人はあまりいない。
そのようなわけで、この人の認識では、たとえ常識的には考えられないような金銭のやりとりであっても「記録は記録」ということになってしまっているのだろう。「常識」と「記録」が対決して「記録」が勝ちを収めた瞬間である(少し大げさ)。
私はこういう状況を個人的に日本=ソ連化症候群と呼んでいる。
まぁ、今日の話はほとんとが推測なのだが、こうとでも考えなければ、この摩訶不思議な状況を説明できないということで。
6/2(火)
昨日、いつものように寝付かず悶々としていると、いつの間にか子守歌について考え始めていた。「ねんねんころりよ」や五木の子守歌にはじまり、モーツァルト/シューベツト/ブラームスの子守歌を経て、ギザギザハートの子守歌、聖母たちのララバイ、東京ララバイへと至った。ここまでで約20分。ここでオタクの定番「ヤゴゲルゲの子守歌」を思いだそうとしてメロディーは出てきたのだが歌詞を思い出せず、一気に目が覚めた。今日になってWebで検索をしてみたのだが出てこない。数年前、「探偵ナイトスクープ」でこの歌を放送した時に録画しておけばよかったと無駄な後悔をした。したがって未だに歌詞を思い出せていない。うぅぅぅ、気になる。。。
子守歌といえば、コレ系の後輩が子供を寝付かせるとき、ザンボット3のエンディング「宇宙の星よ永遠に」を歌ってやっているという話を聞いた。そして奥さんのほうはイデオンのエンディング「コスモスに君と」を歌って聞かせているらしい。使用目的に適した曲調だとは思うのだが、子供が大きくなり、小さい頃に聞いた曲の元番組を観たいと言い出したらどうするのだろうか。どちらを見せても心に深い傷を負うか、逆にグレるのではないかと余計な心配をしてしまう。
こういう番組では相手に対する暴力表現が取りだたされるが、それ以上に感情移入する側への残酷表現を何とかして欲しい。不必要なまでに受け手側の心をつつく意味はあるのだろうか。かく言う私も、TV版「日本沈没」で人が死ぬ回を観た日の夜は眠れなかったし…。
6/1(月)
5月はついに会報の仮更新すらできなかった。残念至極。今月くらいからは正常に戻したい。いや、戻さねばならんっ!と思っている。とはいえ、気合いと根性だけでできるものでもないので、必要以上に気張ることもないのだが(^^;)。
文字を大きくし、横に隙間を入れたら長い文が読みづらくなってしまっているような気が…。なかなかうまく行かないものだ。もう少し考えよう。